写真の未来を考える前に
写真のことを語ろうとすると、私はいつも「写真とは何だろう」という問いに立ち返ってしまう。写真は記録なのか、表現なのか。美しさを追い求めるべきなのか、それとも少し不鮮明でも味わいを重んじるべきなのか。フィルムからデジタルへ移り変わって久しいけれど、この問いだけは今も変わらず心の中に残り続けている。技術は日々進化しても、最後にシャッターを切るのは人間であり、その人のまなざしだ。
”未来を思うとき、なぜか過去や現在に引き戻される” 写真が本質的に「時間の記録」だからこそ、そうなるのかもしれない。
写真の歴史を振り返れば、いつも「新しさ」と「懐かしさ」がせめぎ合ってきた。銀塩からデジタルに移行する頃には「フィルムでなければ写真じゃない」と言う人もいたし、EOS D30が登場しデジタル一眼レフが広まり始めた頃には「フィルムをデジタルに置き換えるなら1,000万画素は必要だ」と議論されたものだ。けれども、いまやデジタルが当たり前となり、フィルムは少しずつ姿を消しつつある。その議論も、今では遠い記憶になりつつある。
私自身はこう考えている。写真はフィルムであろうとデジタルであろうと、「残すこと」に変わりはない。ただ、印画紙に焼き付けるのか、メモリーに保存するのかの違いにすぎない。けれど、フィルムは1本36枚という制限があったのに対し、デジタルはほぼ無限に撮影できる。その自由さが「とりあえず撮る」という気軽さにつながり、撮影に伴う緊張感や覚悟は少し薄らいだように思う。
一方で、写真に求められる工夫は形を変えてきた。フィルム時代には露出や暗室作業といった技術が重視されたが、いまは構図の組み立て方やRAW現像での解釈といった新しい腕の見せどころに移っている。その結果、写真の価値観も「どんな瞬間を残すか」から「どう表現へと昇華させるか」へと変わってきた。
写りの良さという点では、デジタルはすでにフィルムを超えている。けれども「写りがいい=誰もが良いと感じる写真」にはならない。人はときに不便さやアナログ的な要素に価値を見出す。懐かしみや比較の中でこそ、その存在を確かめたくなるものだ。かつてレコードとCDが議論されたように、写真もまた同じ宿命を背負っているのだろう。
新しい未来はいつも「戸惑い」と「反発」の中から芽生えてくる。人はすぐに新しいものを受け入れられず、立ち止まり、ときに反発しながらも、そうした時間を経てようやく新しい表現が根付いていく。デジタルカメラの未来を考えるということは、単に技術の進歩を占うことではなく、「カメラという道具がこれからどんなふうに人と寄り添い続けるのか」をあらためて考えることなのかもしれない。
デジタル一眼レフの現在地
デジタル一眼レフは、かつてカメラ市場の主役だった存在だが、今では静かに縮小の道を歩んでいる。キヤノンやニコンは久しく新しいモデルを発表しておらず、最後の大きなリリースは2020年に登場した Nikon D6 や Canon EOS-1D X Mark III といったプロ向けのフラッグシップ機だった。その後、新モデルはほとんど姿を見せていない。現行機種として残っているのは、ニコンの D850 や D780、キヤノンの EOS-1D X Mark III、EOS 5D Mark IV といった限られたラインナップだ。
そんな中で唯一の例外がリコー(ペンタックス)だ。いまもデジタル一眼レフを中心に据え、フルサイズの K-1 Mark II や APS-Cの K-3 Mark III を主力として展開している。
思い返せば、ミラーレスが台頭する以前、一眼レフの世界は常に競争と進化の連続だった。画素数、連写速度、AF精度──新しいモデルが出るたびに「進化の実感」を与えてくれた。しかし今では、カメラの基本性能はすでに多くのユーザーを満足させる水準に達し、進化の軸は静止画ではなく動画性能や周辺機能に移っている。結果として、静止画を主役とする一眼レフは、メーカーにとって成長の余地が小さい分野となりつつある。
市場を見渡せば、現在デジタル一眼レフを現行ラインナップとして展開しているのはキヤノン、ニコン、ペンタックスの3社だけだ。その数は徐々に減ってきており、いずれ生産終了となる可能性もある。しかし、熱心なファンの中には後継機を待ち望む声も根強く、特にペンタックスは新モデル投入への意欲を見せている。企業は利益を前提に動く以上、採算が見込めない製品が徐々に姿を消していく流れはあるものの、すべてがすぐに終わるわけではないだろう。
こうしてデジタル一眼レフは、かつての王道から「過去を受け継ぐ存在」へと立場を変えつつある。市場の主役は完全にミラーレスへ移り、デジタル一眼レフはその陰で静かに役割を終えようとしている。しかし同時に、合理性だけでは測れない価値を見出す人たちが今もいる。数字や効率では語れない「手応え」や「体験」に魅せられる人々だ。
市場の必然と、個人の情熱。そのあいだで揺れながら、存在し続けているのかもしれない。

CANON EOS 5D Mark Ⅱ

CANON EOS 6D
ミラーレスという必然
デジタル一眼レフがゆるやかに後退していく一方で、ミラーレスの歩みは着実に加速していった。軽量化、高速化、そして進化し続ける電子ファインダー
それはまさに「時代の必然」と呼ぶべき流れだった。
振り返れば2008年。パナソニックのLUMIX G1が世界初のミラーレスとして登場し、新しい道を切り開いた。当初は「デジタル一眼カメラ」と呼んでおり、「ミラーレス」という言葉は説明的に添えられる程度だった。2012年ごろには「ミラーレス一眼」という呼び方が広く浸透し、ひとつのカテゴリーとして確固たる存在感を持つようになる。そして2013年、ソニーのα7が世界初のフルサイズミラーレスとして市場に衝撃を与えた。以降は小型軽量という利点だけでなく、本格的な表現のための道具としての役割を確立。のちにキヤノンやニコンも参入し、市場全体は一気に動き始める。
そして2020年。ついにミラーレスの年間出荷台数がデジタル一眼レフを上回り、王座交代の瞬間を迎えた。時代が切り替わったことを誰もが実感した出来事だった。
ただ、ここで少し立ち止まってみたい。
フィルムからデジタル一眼レフへ移り変わったときも、ファインダーを覗きながら出来映えを想像し撮影していた。設定を変えながら試行錯誤を繰り返し、思い通りの一枚にたどり着くまでには時間もかかった。それでも、その不便さを「味わい」として楽しんでいたのが、デジタル一眼レフの時代だった。
たとえば夕暮れ時。光学ファインダー越しに見えるのは“いま”の景色そのもの。頭の中で露出を組み立てながらシャッターを切り、背面モニタで確認しながら微調整を繰り返す。納得のいく写りに辿り着くまでのプロセスには、緊張感とワクワク感が同居している。効率だけでは語れない「人が写真を作る時間」が、いまも確かに息づいている。
一方、ミラーレスはその“出来映えの想像”を徹底的に取り除いていくカメラだ。走る子どもの姿を瞳AFで確実に捉えられる。ポートレート撮影では、EVFの中で完成形を確認しながら色味を調整できる。結果を即座に見て修正できる安心感は、一度味わえばもう後戻りはできない。
便利さを否定する理由はない。むしろ現代においては、その効率こそが求められているのかもしれない。技術はすでに「人を支える」段階を超え、「人の感覚を先回りする」領域へと入っている。
ただ、便利さが極まった先には、誰もがプロ並みに撮れる時代が待っている。アマチュアとプロの境界はさらに曖昧になり、写真における「カメラの存在意義」とは何か? その問いに向き合うのは、これからの私たち自身なのだろう。

FUJIFILM X-PRO1

SONY α7S
センサーサイズの意味:大きなサイズは本当に必要なのか
カメラ談義で必ずといっていいほど話題に上がるのが「センサーサイズ」だ。フルサイズは王道とされ、豊かなボケ、広いダイナミックレンジ、そして圧倒的な解像感を備える。その一方で、APS-Cやマイクロフォーサーズといった小さなセンサーにも独自の魅力がある。小型軽量で持ち運びやすく、焦点距離に換算効果を与え、コスト面でも優れている。では、本当に大きなセンサーだけが正解なのだろうか。
近年ではスマートフォンの進化も無視できない。画像処理によって暗所や高感度に強くなり、日常の記録なら不満を感じることはほとんどないレベルに達している。結果として、ミラーレスですら「本当に必要なのか」と問われる場面が増えてきた。
センサーサイズの話は、単なるスペック競争では片づけられない。確かに大きなセンサーは画質を底上げするが、それが表現の質を必ず保証するわけではない。小さなセンサーで撮られた写真には、その場の空気感や軽快さが生きることもある。センサーの大きさをめぐる議論は、結局「何を優先するか」という価値観に行き着く。画質なのか、機動力なのか。それとも、気軽に撮り歩ける自由さなのか。
結論を言えば、センサーサイズに絶対的な正解はない。大きなセンサーを選ぶのは「理想」を追う行為であり、小さなセンサーを選ぶのは「現実」と折り合う選択でもある。どちらが優れているという話ではなく、そこには「自分はどんな写真を撮りたいのか」という問いが隠れている。センサーの数値に語られるのはスペックだけかもしれない。しかし、その背後には、撮影者の考え方や写真への向き合い方が映し出されている。

SIGMA DP1

FUJIFILM X-H1

CANON EOS 6D
画素数の競争はこれからも続くのか?
数年前まで、カメラ業界は「画素数」という数字に夢中になっていた。2000万、3000万、そして2025年の現在は6000万画素が話題の中心になっている。しかし、本当に高画素が必要なのだろうか。
確かに高画素は細部を鮮明に描き出し、クロップ耐性にも優れている。だが、その一方でデータは膨れ上がり、現像環境も選ぶ。被写体の細かな粗まであらわになり、時には写真が整いすぎて、冷たさを感じることさえある。高画素は自由をもたらすと同時に、制約にもなるのだ。ピクセルの数が増えても、感動の数が増えるわけではない。技術と表現の関係には、常に微妙なずれがある。作品をどこで見せたいのか、ネットなのか、個展なのか。画素数を追い求めるかどうか。答えはひとりひとりが決めるしかない。
その一方で、高画素機を使うと、思わぬ感覚に出会うことがある。細部までくっきり写るがゆえに、余韻や柔らかさが薄れ、写真が完璧すぎて冷たく感じることもある。影の濃淡や光の滲み、ノイズに埋もれた奥行き──そうした曖昧さや余韻が、写真に独特の味わいを与える。
だから私は、高画素機にオールドレンズを組み合わせることもある。さらに、ときには低画素機で撮影することもある。20年以上前のデジタル一眼レフ、EOS D30の300万画素。いまのカメラの約1/10ほどの画素数だ。それでも、このカメラが生み出す写真には独特の味わいがあり、思わずその感触を楽しみたくなる。完璧さではなく、余韻や柔らかさを味わう時間がここにはある。
高画素か低画素か、最新機か旧型機か。結局のところ、写真の表現を決めるのは数値ではなく、撮る人自身の感覚なのかもしれない。

SONY α7R Ⅱ

CANON EOS D30
未来に残るのは「技術」か「感性」か
カメラは日々進化している。だが、人間の目はほとんど変わらないと聞いたことがある。視覚の仕組みは何千年、何万年もほぼ変わらず、私たちの感性はアナログのまま残っているという。
だからこそ、どれだけ技術が進んでも、「いい写真」と呼ばれるものは、結局、人間の心が感じ取るものに依存している。写真は未来を映す機械ではなく、今この瞬間を切り取る道具にすぎない。
未来を考えることは、結局「いまの自分のあり方」を見つめ直すことにもつながる。そう考えるたび、少し安心したような気持ちになる。
写真を撮るということは、一瞬を切り取り、未来に残すことでもある。そして同時に、それは「いまを感じる」手段でもある。シャッターを切るときの緊張や期待、ファインダー越しに見た光の揺らぎ、少しの失敗や偶然。そうした体験のすべてが、私たちに「いま、ここにいる」という感覚を与えてくれる。
だからこそ、未来に残すものを技術か感性かで選び切る必要はない。高精度なカメラがもたらす正確さや便利さも、心の動きや個性を写し取る感性も、どちらも大切な要素だ。むしろ、両方の良い部分を活かしながら写真を楽しむことこそ、未来に向けて伝えられる価値を増やすことになるだろう。感性があれば、技術はより豊かに、表現を広げてくれる。技術があれば、感性はさらに確かな形を得られる。両者を生かしていくことで、写真は時を越え、未来に届くものになっていくだろう。
写真の未来は、選択の積み重ねから生まれる
カメラの未来は、まるでメーカーのロードマップに描かれているかのように見える。でも実際にその未来を形にするのは、シャッターを切る私たちだ。道具に振り回されるのか、それとも道具を自分の手足のように使いこなすのか。その選び方こそが、写真を撮る姿勢を映し出す。
最新のフルサイズミラーレスを手にしても、APS-Cで軽やかに撮り歩いても、あるいはデジタル一眼レフやフィルムカメラで楽しんでいてもいい。正解はひとつではない。最後に残るのは、「自分は何を撮りたいのか」という問いだけだ。未来を見つめるということは、案外、自分自身の視線をもう一度確かめることにほかならないのかもしれない。
どのカメラを手にするか、どんな風に使うか、何を残すか。そのひとつひとつの選択が、未来の写真文化を形づくっていく。新しいカメラに心を躍らせながらも、古いカメラを手に取り、その存在感に思いをめぐらせる。次の未来は、その一枚一枚の積み重ねから始まっていく。
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